龍谷ミュージアムは、龍谷大学創立370周年事業の一環として構想され、2011年4月に開館しました。
これまでに40を超える展覧会を開催し、多くの方々にご来館いただきました。
この”Story”では、龍谷ミュージアムに関するいくつかの物語をご紹介します。展覧会とはちがった切り口で、龍谷ミュージアムのことをお伝えできれば幸いです。
(その他、近日公開)
龍谷ミュージアムの場所は、平安時代に「東市」と呼ばれる官営の市場があった所です。『延喜式』(平安時代の法令集)によると、東市には51軒の店がありました。ミュージアムの建設にあたり、発掘調査が実施され東市に関連した建物を区画する溝や井戸の跡、さらに市が賑わった頃の多くの遺物(生活品)が発見されました。その後、鎌倉、室町時代にも町屋があったことは、発掘調査によって確認されていますが、応仁の乱以降、戦国期には人が生活した跡は確認されていません。
そして、本願寺が大坂・天満から現在の地に移転してきた天正19年(1591)以降、ミュージアム周辺は、僧侶、町民などが居住し、大工、絵師、仏具師、宿屋といった商工業者も軒を連ね寺内町が形成されていきます。
身近なところでは、昭和36年(1961)、宗祖親鸞聖人700回大遠忌法要に伴う記念事業として、「本願寺会館」が竣工します。会館には959席を有する大ホールや大型映写機が完備され、多くの門信徒の方々が利用していました。
このように、ミュージアムの地は、昔から多くの人が行き交う賑わいのある場所でした。そして、これを受け継ぐべく「温故知新」で今後のミュージアムの活動に取り組んでいきたいと思っております。
2009年龍谷ミュージアム開設準備室時代のこと。夏の盛りに大学と設計・建設会社で結成した十数名のチームで庵治石の産地である高松へ向かいました。
イサム・ノグチ庭園美術館で庵治(あじ)石(いし)について学んだ後に複数の採石場を何度も移動して、色や形の違う石を見て、測って、角度を変えての繰り返し。日暮れ前にやっと一つに絞りました。
秋には紅葉を選定に那須高原へ。道中、某繊維メーカーの森林管理事業の話に感心した後に複数の「紅葉畑」を何か所も巡り、色や形の違う木を見て、測って、角度を変えての繰り返し。日暮れ後にやっと一本に絞りました。
2010年、堀川通から中庭に、巨大なタワークレーンで吊り上げられた庭石と紅葉がやってきました。
庭石は吊り上げた際に自重でクレーンが折れる恐れがあるため、裏側をくりぬいて軽くしました。運搬のため枝を切りそろえ根を丸く保護した紅葉は、ダイオウイカのように上空に現れました。こうやってミュージアム中庭で久しぶりに対面すると感慨深いものがありました。
2011年ミュージアム開館後、しっかり根付いた紅葉の竹とんぼのような種子が庭石の上を舞っていました。
2021年、展観する際にはまず中庭を観察します。「ミュージアムのいい顔になってきた。」